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宮沢賢治『やまなし』のクラムボンの意味を考察した

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こんにちは、つっきーです。

今回は小6教科書に登場する『クラムボン』の意味について、そこそこ真面目に考えたので記事にしてみました。

ちなみにこのネタはラーメン食べてる途中で思いついたものです。チャーシューが美味でした。


そもそもクラムボンが出てくるあの話、今でもしっかり覚えていますか?

私は当時クラムボンの正体に悩みすぎたせいで、ストーリーの方は全く覚えていませんでした。話を忘れてなお脳内に浮かぶクラムボンという単語……印象値がすさまじいレベルです。

それはそうと、単語だけでは考察できないので、改めて読み直してみました。青空文庫で公開されているので気になった方はリンクからどうぞ。

小学生のころを思い出してとても懐かしくなりました……。


宮沢賢治 やまなし


こんなに怖い雰囲気だしてた?

「死んだ」「殺された」って、小学6年生の教科書に載っているわりには結構ストレートな表現ですよね。クラムボンの正体次第では、なかなか残酷な話になりそうですけど……それはこれから考えてみましょう。


あと全然関係ないんですけど、小学校で「クラムボンとは何か?」について全員がプレゼンしたことも思い出しました。白熱するあまり意見違う子と口論になって、先生が本気で焦っていたことも合わせて思い出しました。

あの時は本当にごめん、先生。


クラムボンとは


カニの兄弟目線で語られる存在

②笑ったり、死んだり、殺されたりする


情報としてはこれくらいですね。こうやって書いてみるとますます訳が分かりません。そもそも生き物か、生き物でないかすら分からないというとんでもない結果に。これは強敵ですね。

しかし、あれから幾数年。私の脳は若干成長しています。この少なすぎる情報からヒントを絞り出してみましょう。



泡説


これはもうオーソドックスな説ですね。かつて私が小6だったころもこの説を有力視していました。ちなみに相手の子は「光説」を主張していましたが……。

この説の根拠としては、兄弟がクラムボンについて話したあと、すぐに泡の状態について触れられることでしょうか。

たとえばこれ(宮沢賢治『やまなし』からの引用です)。

クラムボンはわらったよ。』
クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
クラムボンは跳はねてわらったよ。』
クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
 上の方や横の方は、青くくらく鋼はがねのように見えます。そのなめらかな天井てんじょうを、つぶつぶ暗い泡あわが流れて行きます。

(中略)

クラムボンはわらっていたよ。』
クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
 つぶつぶ泡が流れて行きます。


兄弟が2回ずつ話し、それから泡について地の文で触れています。つまり兄弟が泡のことを「クラムボン」と呼んでいる、ということですね。

「殺された」は泡が割られたということで説明できます。この説でいくと残酷さは限りなく0です。

しかしここで疑問になるのが、「全てが比喩表現になる」ということ。

子供にとって比喩表現はかなりハイレベルです。使いこなすためにはそこそこの年齢にならなければなりません。みなさんも幼稚園児が比喩、特に隠喩を使って会話する様子は見たことがないと思います。

ということは、この説はボツになる? いやいやここで諦めてはいけません。



子供の表現について


ここで注目したいのは②かにの兄弟目線で語られているということ。

斧谷彌守一氏の著書にこんな話が載っていたので紹介します。ちょっと長くてややこしいので、さらっと読んでもらって大丈夫。

前提として、3歳の女の子が夜光虫によって光る海を見て「あれはね、うみのおほしさまだよ」と言った、というシチュエーションです。

それでは『言葉の二〇世紀』から引用します。

この女の子は、夜光虫を「おほしさま」に喩えるという形で比喩を語ったつもりなのだろうか。そうではあるまい。漠然とした暗い広がりの中にキラキラと光るものは、この子にとって、文字通り「おほしさま」なのである。

(中略)

この子があの言葉を使ったとき、この子は紛れもなく「(うみの)おほしさま」と実感したのである。この子は、それ以前に初めて夜の空の星から「星」という言葉を了解した時、「星」という語の世界、漠然とした暗い広がりの中にキラキラと光るものがある立体的世界の雰囲気同一性を了解した、と言えるのではないか。


話をまとめると、子供は言葉を雰囲気だけでカテゴライズし、全体的にとらえる、ということです。

大人になるにつれて、「星」と「夜光虫」は全く別のカテゴリだということを理解しますが、子供のうちは雰囲気でとらえるからこそ、こんな間違いをしてしまうのです。


話をクラムボンに戻します。

このクラムボンは幼いかにの兄弟によって語られている、という設定です。言葉のたどたどしさやボキャブラリーから見て間違いないでしょう。

そしてこの幼い子供たちは、消えてしまったり、動かなくなることを「死」と認識しているのではないでしょうか。かにが動かなくなることは「死」だし、それを応用して無生物が動かなくなることも死と捉えている。もしかしたら捕食される(連れ去られて『消える』)ことも「死」や「殺される」かもしれません。


つまり幼子にとっては「死」が「生き物の心臓が止まること」を指しているとは限らないのです。ついでに「殺される」が「誰かに食べられる」だけとも限らない。

結論は、あれらの言葉は比喩ではなく、かに兄弟は見たままを言っただけということ。

泡が何かに割られてしまったのでしょう。それで消えてしまったから「殺された」。

……ちょっと無理やりすぎる?


しかも泡をクラムボンと呼んでいるなら、どうして他の泡は普通に泡と呼ばれているのか。ここに矛盾が発生してしまいました。




人間説


突然のミステリー&ホラー展開

でもそんなにぶっ飛んだ説じゃないと思います。小学生の教科書に載るには怖すぎるというだけで。


川に遊びに来ていたケンタくん(仮名)が、何者かによって殺害されたというストーリー。

こうしてみると「笑った」「死んだ」「殺された」は完全に見たまんまになるので解決です。


またカワセミが登場するシーンで、父親は子供の言葉をもとにカワセミだと断言しましたかが、あくまで子供のする話です。

しかも『そいつの眼が赤かったかい。』『わからない。』とも言っています。カワセミでなかった可能性は充分考えられます。つまりこれらはミスリードなのです。


でもカワセミじゃないなら、一体何なのか。

ヒントは「青いもの」「先がコンパスのように黒く尖っている」「魚を突ける」です。ここが川、そして人間がいることからしてモリでしょうか。

釣り道具では魚を突くことはできません。しかも突かれた魚は上に上がっていったらしいので、やはり魚をとる道具と考えるのが自然でしょう。

殺したあとに悠々と魚捕りを楽しんでいたらサイコパス以外の何物でもないので、恐らくアリバイ作りか何かだと思います。


人里離れた川でひそかに行われた殺人。犯人を知っているのは幼いかにの兄弟のみ……。

この展開からすると、事件は迷宮入りなのでしょう。

自分で言っておいて怖すぎです。想像したら背筋が寒くなってきたので、この話は終わりです。


でも正直悪くないと思うんです、この解釈。




意味はない説


これが今の私が1番推している説です。「何だよつまらん」と思うでしょうが、とりあえず聞いてみてください。

まず宮沢賢治本人が、クラムボンについて何のヒントも残していないというのがひっかかります。造語のうえこれだけ訳のわからん存在なのに、正体をほのめかす表現がほとんどないし、別の本に注釈があるわけでもありません。あまりに不親切です。

次に、『注文の多い料理店』の序文から引用します。

これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。

ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。


平仮名だらけで読みにくいんですけど、大切なのは最後の段落です。『わけのわからないところもあるでしょうが』と言っています。

うん、特にクラムボンが。

で、その続きには『わたくしにもまた、わけがわからないのです。』とあります。


……え? ちょっと待って。分からないの? 書いた本人が分からないって、それはもう誰にも分からないってことですよね?

でもここにしっかり書いてあるということはそういうことなのでしょう。永遠の謎であるクラムボンもこの『みんな訳が分からない』に含まれてしかるべきです。



最期にこの『やまなし』全体の雰囲気についてです。

かにの兄弟が澄んだ川の底から眺める景色。吐き出した泡はゆっくりと水面に向かって飛んでいく。差し込む金色の光。ぼとんと落ちてきたのはやまなし。

想像してみてください。何とも幻想的な光景です。


つまりこの話において、宮沢賢治は『幻想性』を優先したのではないでしょうか。

そうなると私たちの理解を超えた謎の存在・クラムボンは、このストーリーをより浮世離れしたものへと変えていきます。たとえば妖精が出てきたら突然ファンタジックになりますよね……だって現実ではありえないのですから。原理はそれと同じです。

クラムボンという架空のものが登場することで、『やまなし』は幻想的で美しく、少し謎めいた世界になります。

おかげさまで多くの人が散々悩まされたわけですが、そもそも正体を考えていること自体が不毛、という結論です。


クラムボンクラムボン、それ以上でもそれ以下でもありません。




まとめ


3つの説を取り上げましたが、今の私は③の『意味はない』説を最有力視しています。

でも5年もしたらまた意見が変わるかもしれないし、新しい解釈を発見するかもしれません。それはそれで楽しみです。

また他の方にはまた別の意見があるでしょう。お互いの解釈を楽しんでいきたいと思っています。



ところでこの『やまなし』、小学校の先生の悩みの種らしいです。

「じゃあ教科書に入れるのやめてあげてよ……」とも思ったのですが、子供の頃に不思議だと感じたことを、こうやって大きくなっても考えていられるなんて素敵ですよね。

子供の頃に与えられた『小さな謎』の魅力は計り知れないので、先生には同情しますがこれからも授業で取り扱ってほしいです。



では今回はこのへんで。

最後までありがとうございました!

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